「きょうは、ひなんくんれんだったの」
月曜日に降った雪がかちんと凍った帰り道で、
わが家のミルティンくんことS志が言いました。
そう、今日1月17日は、阪神・淡路大震災から18年。
S志の保育園でも、子どもたちに震災の記憶を伝えて、防災意識に活かしてこうと、毎年この日に避難訓練をしています。
「Yせんせいね、はんしんあわじのとき、19さいだったんだって」
なにげにY先生の年齢を暴露しちゃいつつ、
「S志……そのときまだいきてなかったの……」
と、道に残っていた雪のかけらを踏みしめながら、なんか遠い目をしていました。
そうだ、時間がわかりつつある子どもにとって、「自分が生まれてないころ」って、すごくふしぎなものなんだ。
私も子どものころ、そうだったな。
生まれる前のことを考えるとブラックホールにのまれたような感じになりました。まったく想像が及ばない、気が遠くなるような気持ち。
お母さんが「渡辺徹って昔は細くってカッコよかったのよお」とか「さんまも昔はアイドルだったのよお」などと言うと、「わたしがうまれてなかったころも、渡辺徹は、いた……(しかも細い)」と、空を見つめたものであった。
S志にとって阪神・淡路大地震は、「自分がいなかったころ起きた」という得体のしれないこわさも相まったインパクトがあるのかもしれないです。実際に停電のなかで過ごしたり、テレビで見たりして経験した東日本大震災よりも、謎めいているぶん、おそろしい部分があるのかな。
だからでしょうか。
そのあと夕ごはんの時間。
鶏のからあげにタルタルソースをかけて「たるたるう〜」とオリジナルソングをいつものように突発的に歌っていたS志が、クワッといきなり顔をあげました。
すでに、顔は、姜尚中さんになっていました。
(S志が説教モードになった装着される表情)
またなにか(どうでもいいことを)諭されそうだと薄目になった私でしたが、
「ママ、はんしんあわじはね」
あ、まじめな話だった。
ちょうど、さっきまでニュースで震災の話題が出ていたところでした。S志なりに、災害のかなしさを考えたのかもしれない。
次の言葉を待ちました。
「はんしんあわじは」
「うんうん」
「きょうりゅうがいるじだいに、おこったの」
「……」
「アメリカの、ニューメキシコしゅうで」
「……」
「そこには、キノボリサンショウウオと、ティラノザウルスがいて、せかいいちおおきい、セコイアの木にぶんぷしていたの。
セコイアのきにのぼることは、にんげんにはできないの。でも、キノボリサンショウウオにはできるのね」
「阪神・淡路大震災が、恐竜のころに起こったの……(震え声)」
「そう、でもね、
はんしんあわじがおこったとき、アメリカはゆれなかったからね、じわれは、おきなかった!」
(不毛な議論をふっかける人をけちらすかのような手の動き)
……
※ニューメキシコ州らへんのくだりは昨日の夜読んでた『セコイア』(ジェイソン・チン著/福音館書店刊)という絵本から来てると思われます
なにか完全に置いてかれた感と闘いながら、私はハッとしました。
そうか。そうなのか。
子どもにとって、「じぶんがまだうまれてないころ」はすべて、ひとくくりなのかな! もしかして!
10年前も。
さんまがアイドルだったころも。
1億年前も。地球ができる前も。
同じ時間軸なのかな!
そういえば、「ちきゅうは、まだ、そのころアメリカからほりだされてなかった」などと口にしたこともあった(Whyアメリカ信仰?)。あのときから片鱗は見えてた。
ブラックホールにのまれたような気持ちが蘇ってきました。たぶん、今、遠い目。
するとS志が、テーブルの向こうから乗り出してきていました。
「あのね、ママ」
「はあ」
「むかしにおこったことだけどね」
「うん」
「きょう、起こるかもしれないんだよ、はんしんあわじは」
あらっ
わが家の姜尚中さん、だいじなところは合ってた。
——昔のことでも、今日起こるかも。
くり返される災害。遠い昔話にしないこと。震災だけでなく、戦争や歴史も。きっと保育園の先生たちも、そんな思いで、今日はS志たちにお話をしていたのではないでしょうか。
子どもってだいじなところは、伝わってるものだよなあ。
他がバッサリいっちゃってることは、大した問題じゃないのか。
……いや、いかん。
やはりまずは、鶴瓶さんのアフロ写真を見せることから教えていこうと思いますよ(S志は『鶴瓶の家族に乾杯!』が好き)!