ミルティンくんとないしょ話の国
先日、姉と、生後2カ月の姉の赤ちゃんと、銀座で会いました。
産休中の会社に用があったついでだったのですが、
「今日、はじめて(赤ちゃんと)電車に乗ったよ!」
と、コーフン気味の姉。
せっかくだしお茶でも、ということになり、ベビーカーを押してカフェに入ってみると、キョロキョロして落ちつかない。
「数カ月、家とスーパーとパン屋しか行ってなかったからね。見るものすべてにファ〜〜!となるよ」
わかる。
(日本語が少し不自由になるほどに)高揚する感じ、わかる。
わが家のミルティンくんことS志が小さかった時代を、いろいろと思い出しました。
0歳児はとくにそうですが、子どもが小さいころって、お出かけのハードルがほんとうに高い。
出かけて、泣かれて、騒がれたりいきなり寝られたりして、ぱんぱんのママバッグと抱っこで筋肉痛になって、後悔したり反省したりして、「もう当分お出かけいいや」ってしゅんとして。
なのに、むしょうに、出かけたくなる。
あれは、どうしてなんだろう。
そんなこと考えてたら、記憶の底からあるできごとが蘇ってきた。
今日は、わたしの母業史上もっとも思い出深いお出かけ話を書こうと思います。
それは、S志2歳の春じゃったか……
日曜日で、夫となにかでケンカしまして。
なんだかいつもと違うところに行きたくて、S志を連れてお寺の骨董市に出かけました。バスを2本乗り継ぐ観光スポット。当時の2人にしてはちょっと遠出のチャレンジでした。
骨董市までは順調でした。
買いものできて満足しての帰り道。お寺の参道をしばらく歩いたところで、S志がピタッと停止。
「じゅーすのむ」
のどが渇いたらしい。そういえばずっと歩きっぱなしだったな。
お寺の前の老舗喫茶店。外からのぞくと、貫禄のあるおじさまたちがタバコをくゆらせながら談笑している。これはだめだな。
小さなハワイアンカフェ。「店主外出しています、16時ころもどります」の張り紙。あと20分ももたないなあ。
「じゅーす〜〜!」
疲れと腹ヘリがかさなると、幼児のグズる速度は2割増しであります。地団駄をふむS志を、チワワを連れたおばさんが避けて通っていきます。あーなんで水筒持ってこなかったんだろう。
と、そのとき、オシャレなカフェがあるのに気づきました。
ツタのからまった木の一軒家。いつもだったら、こういう系も敬遠します。でも、S志とこんなお店入れたら楽しそう……。思い切って、ドアを開いてしまいました。
「子どもと2人ですが、いいですか?」
「小学生以下のお子さんはお断りしているんです。でも、もし、お静かに召し上がっていただけるなら、いいですよ」
反射的に、ステキ笑顔(自己申請)で返事してしまいました。
「ええ、たぶん大丈夫です」
テーブルに座るやいなや、S志の耳もとにサッと接近。
ある作戦を伝える。
「あのね、S志、ここは、ないしょ話の国なの。
ないしょ話で話さないといけないの。
そうしないと、王さまがびっくりして国が壊れるんだよ」
「ないしょばなし……」
「そうだよ。S志できるよね」(ヒソヒソ)
「S志、できるっ」(ヒソヒソ)
よしこれでいい。
S志は小さな手を口につけて、「ママ、あのね、○×○×……」とわざと聞こえないようにしゃべっては、クスクス笑っています。うむ、やった。(なにに対してかわからないが)勝った。
無垢板のテーブル。小さなガラス瓶に野の花が生けられています。
BGMは品のいいジャズ。アナログのレコードプレイヤー。音楽の洋雑誌が詰まった本棚のとなりには、金色のテナーサックスが飾ってあります。奥の席を見ると、ベレー帽をかぶった洒落たおじさま2人と、桃井かおり似の婦人が、マスターとおしゃべりしていました。「ルイ・アームストロングのレコードに……」「ロンドンのアイツから電話が……」。
ファ〜〜〜。こういうとこ、S志と来たのはじめて。
しかし、幼児という生きものはそう甘くなかった。
S志が足をバタバタさせ始めました。
飽きてる。早くも飽きてる。S志の足が当たって、椅子がバン、バン、と音を立てます。ベレー帽ズが、こっちを一瞬ふり返る。高鳴る動悸。ふきだす汗。
「S志、やめてね」と止めると、グズグズ一歩前の顔に(ガッツ石松さん的な)。
まずい。
お姉さんっ、早くジュースをーー!
テーブルを握る手に汗。なにかの映画で、敵のデータをディスクに複製中のスパイ(たしかアンジェリーナ・ジョリー)が「カモンカモンカモンカモン……」とインストールゲージを見守る姿が脳裏に浮かぶ。
ああ、もはや一刻も早く出たい。やっぱりこういうお店は、子どもと一緒は疲れるなあ。
どれほどの時間が経ったのか(たぶん10分そこら)。
ぶどうジュースと、私が注文したトーストがついに到着。
ジュースを飲んだら、S志はすっかり落ち着きました。はあはあ。
「おいしーね」(ヒソヒソ)
「良かったねえ」
さっきまでの緊迫感がうそみたいです。S志は、まだがんばって「ないしょ話の国」のルールを守っているみたい。
「ママ、あれ、くるくるまわってる」(ヒソヒソ)
「あれはレコードっていうんだよ」
ふっと、気がゆるみました。ベレー帽ズも愛しているのであろう、このお店の空気を、やっと共有できた感じ。がんばった。いろいろあったけど、よいお出かけになったぞ!
成功を目前にして、モルタルの壁を見上げたそのときでした。
「おなら」
「……」
ゆっくりと顔を下ろすと、トーストの載った木のトレーを持って、満面の笑みでこっちを見るS志が。S志がトレーをちょっと引くと、木のテーブルにこすれて「ブッ」という音がする。S志引く。ブッ。引く。ブッ。おなら宣言に加え、実際したと疑われるにじゅうぶんな音が店内に。
「ママ、おならー」
「S志っやめてっ」
「おなら! ねっ おなら」
「おならとかやめてっ」
「おならー」
「……」(記憶がここでフェードアウト)
このまま気絶したいなって心の底から思いました。
そこまでしてカフェに入りたかったのか。今になると謎にも思います。
でも、やっぱり、入りたかった。
子連れ向けじゃないとこで、子連れ向けじゃないものを食べてみたかった。私だって、そういうのやっていいよね。そんな小さな意地でした。
今、あの日の私に言いたい。
止めないよ! でも知っておいて! ないしょ話の国は、10分で滅亡することを!